アブラハム・マズローといえば、俗にいう「マズローの5段階欲求」という言葉が即座に頭に思い浮かぶに違いありません。

ところがマズローは著作の中で「5段階欲求」という呼称を用いていません。正式には単に「欲求の階層」と呼んでいて、特にマズローが「5段階」を強調したわけではありません。また、晩年のマズローは、五つの欲求の最上位にある「自己実現の欲求」を二つのレベルに分割しました。

したがって、段階を強調する場合、マズローの「欲求の階層」は、正式には「5段階」ではなく「6段階」になります。本稿ではマズローが提示した「欲求の階層」に関する誤解を明らかにし、マズローのより正確な主張にスポットを当てたいと思います。

YouTubeでもご覧いただけます。

マズローとは何者か

アブラハム・ハロルド・マズロー(Abraham Harold Maslow/1908-1970)は、「欲求の階層(the hierarchy of needs)」、俗に「マズローの5段階欲求」と呼ぶ理論の提唱者として著名です。また、健康な人間が心理的により健康になるための心理学、いわゆる人間性心理学を提唱した人物としても有名です。まず、その生涯を簡単に紹介しましょう。

マズローは、1908年4月1日、米ニューヨークのマンハッタンで、父サミュエル、母ローズの長男として生まれました。1926年にニューヨーク市立大学へ進み、翌年にはコーネル大学、さらに翌年の28年にはウィスコンシン大学に移っています。さらにこの年の冬、従妹のバーサ・グッドマンと結婚します。マズローは弱冠20歳、妻のバーサは1つ下の19歳でした。

また同年の夏、マズローはカール・マーチスン(Carl Murchison/1887-1961)が編集した著作『1925年の心理学』を通じて最新の心理学と出会います。中でもマズローを魅了したのがジョン・B・ワトソン(John B. Watson/1878-1958)が提唱する行動主義心理学でした。

ワトソンが提唱した行動主義では、客観的な観察が不可能な心的状態について語るのをやめ、客観的な観察が可能な行動の予測とコントロールに関心を集中します。以後マズローは、行動主義心理学者として歩み始めます。

しかしやがて行動主義とも袂を分かち、マズローは独自の仮説である「欲求の階層」を主張するとともに、健康な人間がより心理的に健康になるための人間性心理学を提唱します。この人間性心理学は、当時の二大潮流だったフロイト心理学と行動主義とは立場が異なっていたことから、これを「第三勢力の心理学」と呼びました。

マズローが歩んだ心理学上の過程を時系列で追うと、およそ4期に分けることができます。

第1期1930年代・・・・・・行動主義心理学者として歩む
第2期1940年代・・・・・・独自の心理学的方向を見出す
第3期1950年代・・・・・・人間性心理学を目指す
第4期1960年代・・・・・・より宗教的・哲学的思索を深める

第1期はマズローが行動主義心理学者として活動した時期です。ただ1930年代の終わりから40年代の初めにマズローは内的変化を経験し、独自の心理学へと舵を切ります。この第2期の1943年にマズローは、「欲求の階層」の理論(以後、欲求階層論と表現します)を公表しています。

第3期の1951年、マズローはマサチューセッツ州ウォルサムにあるブランダイス大学の教授に就任し心理学部の学部長に就きます。この時期のマズローは、その独自の心理学的方向性が人間性心理学へと発展していきます。また自己実現や至高経験を研究対象にしたのもこの時期の特徴です。

さらに第4期になると思索はより深まり、内容も宗教的・哲学的になっていきます。この時期にマズローは自己実現者を超越的な自己実現者と超越的でない自己実現者に二分しています。

第4期の終盤にあたる1968年、マズローはアメリカ心理学会会長に就任します。さらに翌69年にはブランダイス大学を退職し、ラフリン財団の特別研究員としてカリフォルニアに移りました。しかしそれからわずか1年後、持病だった心臓障害で1970年6月8日に急逝します。享年62でした。

マズマズローが唱えた「欲求階層論」

冒頭でも述べたように、マズローの名が一般に広く流布するのは「欲求の階層」の理論(欲求階層論)を公表してのことです。この理論が最初に世に出たのは1943年のことで、マズローが公表した論文「人間の動機づけに関する理論」によってです。さらに1953年に世に出た著作『人間性の心理学(動機と人格)』がこの論文を収録しています。

この論文の中でマズローは、人がおしなべてもつ、五つの階層からなる欲求について言及しました。あまりにも有名なその五つの欲求とは次のとおりです。

①生理的欲求(Physiological Needs)
②安全の欲求(Safety Needs)
③所属と愛の欲求(Belongingness and Love Needs)
④承認の欲求(Esteem Needs)
⑤自己実現の欲求(Self-Actualization Needs)
1

以下、順番に各欲求の概要について説明しましょう。

①生理的欲求
「生理的欲求」は人を動機づける最も根源的な欲求です。この欲求は生命維持(ホメオスタシス)に大きく関連する欲求と言い換えると、対象となる欲求の中身がわかりやすくなると思います。酸素や食物、飲料のほか、性や睡眠などは代表的な生理的欲求の対象となります。

中でも食にかかわる欲求は生命維持に関する欲求の中でも極めて強力です。極端に飢えている人は他の欲求を棚上げしてでも飢えをしのごうとするでしょう。この時、意識は完全に飢えに集中し、他の欲求はどこかへ消えてなくなります。

ところが、一旦飢えがおさまると、これに代わって新しい欲求、つまり食欲よりもより高次の欲求が優位に立ちます。

②安全の欲求
飢えなどの生理的欲求をある程度満たすと、次に「安全の欲求」が現れます。これは身の安全や身分の安定、他人への依存、保護してもらいたい気持ち、不安・混乱からの自由、構造・秩序・法・制限を求める欲求などを指します。

③所属と愛の欲求
人が生理的欲求と安全の欲求を満たすと、今度は「所属と愛の欲求」が現れてきます。人は孤独や追放、拒否といった寄る辺のない状態、根なし草で生きている状態を続けるのは困難です。こうして家族や恋人、友だち、同僚、サークル仲間などに目が向いて、共同体の一員に加わりたいと思うようになります。

また単に一員になるだけでなく、周囲の人が自分に愛情深く温かく接してほしいとも思うでしょう。これが所属と愛の欲求です。

④承認の欲求
人は所属と愛の欲求を満たすと、今度は「承認の欲求」が芽生えてきます。マズローによると、承認の欲求は二分できるといいます。

一つは自己の自己に対する評価への欲求です。これは強さや達成、熟達、能力への自信、独立と自由など、自己をより優れた存在と自認する、いわば自尊心ともいえるものへの希求です。

もう一つは他者からの評価に関する欲求です。こちらの欲求では、評判や信望、地位、名誉、栄達、優越、承認、注意、重視などが重要な対象になります。

⑤自己実現の欲求
「自己実現」という言葉は、心理学者で脳科学者でもあったクルト・ゴールドシュタインが初めて作り出した言葉です。自己実現とは人が潜在的にもっているものを開花させて、自分がなり得るすべてのものになり切ることです。つまりより一層自分であろうとする欲求が自己実現の欲求にほかなりません。

生理的欲求、安全の欲求、所属と愛の欲求、承認の欲求、これらを十分に満たせたとしても、人は自分に適していることをしていない限り新しい不満が生じてくるものだ、というのがマズローの考えでした。この点についてマズローは次のように述べています。

自分自身、最高に平穏であろうとするなら、音楽家は音楽をつくり、美術家は絵を描き、詩人は詩を書いていなければならない。人は、自分がなりうるものにならなければならない。人は、自分自身の本性に忠実でなければならない。このような欲求を、自己実現の欲求と呼ぶことができるであろう。
マズロー『人間性の心理学』

欲求階層論、その四つの主張

マズローが提唱した欲求階層論には、大きく四つの論点があります。第1に人がもつ五つの基本的な欲求は個人差が少ない、つまり一定して存在するという点です。

第2に、人がもつ基本的な欲求が、相対的な優先度を基準に階層を構成しているという点です。

第3に、優先順に並んだ欲求において、人は低次の欲求を満たすと、より高次の欲求が現れるという点です。なお、5番目に位置する自己実現の欲求は永遠に追求する種類のものです。そのため私たちから欲求すなわち動機が消失することはありません。

それから第4に、欲求の階層と健康度には相関関係があるという点です。

この四つの論点のうち、第2と第3の論点をビジュアルで表現したものが、5層に分けたピラミッドの各階層に五つの欲求を対応させた、あの著名な図です。その一例を示しましょう(図1)。

図1:欲求の階層

階層の一番下が生理的欲求、最上階が自己実現の欲求です。一般的な組織はピラミッド状の人事構造をもっています。よく見るこの図では、人事構造と同様に上層部にいくほど重要度が高まるということを無言のうちに表現したいがために、欲求の階層をピラミッド状で表現したのでしょう。

なおマズローは論文「人間の動機づけに関する理論」で、基本的な欲求は「五つ」あるという点をそれほど強調していません。また「五つの欲求」という表現はありますが、「5段階欲求」という語も用いていません。またマズローはこの語を他の著作でも使用していません。

加えて、俗にいう「マズローの5段階欲求」とセットで出てくる5層に分けたピラミッド図も、論文「人間の動機づけに関する理論」には載っていません。他の著作にもありません。以上から、「マズローの5段階欲求」や5層に分けたピラミッド図は、マズローとは異なる後世の人が作ったものだということがわかります。

ちなみに、マズローの欲求階層論は、心理学よりもむしろ経営学を通じて一般に広まりました。1960年にアメリカの経営学者ダグラス・マグレガー(Douglas McGregor/1906-1964)が出版した著作『企業の人間的側面』がその契機になっています。

マグレガーはこの著作の中で、経営管理者が従業員を管理する手法としてX理論とY理論を提唱しました。マグレガーはこの理論の基礎にマズローの欲求階層論を用いました。X理論とY理論は、折からのマネジメント・ブームの影響もあり、経営管理の基礎理論として流布します。

その結果、心理学関係以外の人でも、マズローとその欲求階層論を知るようになります。

ただし、マクレガーも「マズローの5段階欲求」という言葉は用いていません。また彼の著作も、5層に分けたピラミッド図を掲載していません。いまや誰がこれらを用い始めたのかは謎です。

ただし、「マズローの5段階欲求」という言葉は、マズローの考えを表現するのに適切とはいえません。それはのちにマズローが、自己実現の欲求を二つのレベルに分けるからです(この点についてはのちに詳しく説明します)。したがって、もしマズローの欲求階層論を段階づけするならば、「5段階」ではなく「6段階」にすべきです。

現在でもあちこちのウェブページで「マズローの5段階欲求」について5段階を強調して説明しているものがたくさんあります。おそらく原典などまったく目を通さず、孫引きの資料をさらに孫引きして作成した、かなりいい加減なウェブペーシなのでしょう。

ですから、少なくともいまだに「マズローの5段階欲求」というページがあれば疑ってかかるのが得策です。

欲求の相対的満足度

先にも述べたように、欲求には相対的な優先度があります。これは欲求階層論の重要な論点でした。しかし、下位の欲求を100%満足しなければ、次の欲求が生じないかというと、そういうわけではありません。人は低次の欲求を100%ではなくある程度満たすことで、より高次な欲求が現れると考えるのが妥当です。

この点に関してマズローは、一般的な人間について基本的欲求の満足度について、独断であてはめた数字を示しています(『人間性の心理学』)。これによると、一般的な人間では、生理的欲求が85%、安全の欲求が70%、所属と愛の欲求が50%、承認の欲求が40%、自己実現の欲求が10%、このようにそれぞれを満たしていると見立てています。

マズローが示した数字が正確かどうかはともかく、この考え方を流用すると、先に見た5層に分けたピラミッド図とは別のビジュアル・イメージを想定できます。従来のピラミッドを四角形の中に取り込んだイメージです(図2)。

図2:欲求の階層の新たなビジュアル

ご覧のように四角形は5層の区分になっていて、それぞれがマズローの指摘した五つの欲求に相当します。この四角形の中央に従来のピラミッドが位置します。

では、ピラミッドを中に含む四角形を、私たちが潜在的に達成可能な自分がなり得るすべてのものになった状態だと考えてください。その上でアミのかかったピラミッド部分に注目してください。

この場合、アミのかかったピラミッド部分は、四角形(完全な自己)に対して、未だ完全な自己に至っていない現在の不完全な自分自身だと定義できます。そして、一般的な人ではその達成度が、生理的欲求85%、安全の欲求70%、所属と愛の欲求50%、承認の欲求40%、自己実現の欲求10%になるというわけです。

このように、マズローの欲求階層論を四角形とピラミッドの組み合わせで表現することで、いまだ潜在的な能力が開花せず、その結果自己実現に至っていない私たち自身を象徴的に表すことができます。つまりマズローに従えば、私たちは成長の途上にあるのであって、不完全な三角形を完全なる四角形へと変ずるよう努めるべきなのです。

このようなイメージが湧く四角形とピラミッドの組み合わせは、従来の「5層のピラミッド図」よりも示唆にあふれていると思います。

至高経験と欲求の第6の階層

第3期から第4期のマズローは、至高経験(Peak Experience)に関する研究を深めていきます。マズローは至高経験について、「人間の最良の状態、人生の最も幸福な瞬間、恍惚、歓喜、至福や最高のよろこびの経験を総括したもの」(『人間性の最高価値』)だと述べています。

心理学者でもあり哲学者でもあったウィリアム・ジェームズは宗教を通じて得ることができる、人智を超えた特異な経験を宗教的経験または神秘的経験と表現しました。ただしマズローは、このような経験は宗教だけを通じて得るものではないと考えました。

そこでマズローは、至高経験を「宗教的経験、神秘的経験あるいは超越的経験を世俗化したもの」(『創造的人間』)ととらえました。

一方でマズローは、自己実現者の多くが頻繁に至高体験を経験することを発見しました。しかし、自己実現者ではあっても超越経験をほとんどあるいはまったくもたない人々がいることも観察しました。その結果、晩年のマズローは自己実現した人間には2種類あると考えるようになります。この点に関してマズローの言葉を引きましょう。

私は最近、自己実現する人びとを二種類(いや等級といった方がよいかもしれないが)に区分した方がはるかに好都合であると考えるようになった。すなわち、一つは、明らかに健康であるが、超越経験をほとんどあるいはまったくもたない人びとと、他は、超越経験が大変重要であり、その中心にさえなっている人びとである。
マズロー『人間性の最高価値』

そしてマズローは便宜上、自己実現はしているものの至高経験がほとんどない自己実現者を「超越的でない自己実現者」、至高経験をもつ自己実現者を「超越的な自己実現者」と分類しています(『人間性の心理学』)。そしてマズローは、上記の言葉にあるように、この2種類の人々を単純に分類するだけではなく「等級」に分けました。

マズローのこの考え方に従うと、自己実現者は低次の「超越的でない自己実現者」と、より高次の「超越的な自己実現者」という、2階層をなすことになります。

さらにこの考え方をマズローの欲求階層論に適用すると、5階層目の自己実現の欲求は、「超越的でない自己実現の欲求」と「超越的な自己実現の欲求」に階層化できることになるでしょう。つまり俗にいう「マズローの5段階欲求」は「マズローの6段階欲求」と表現する方がより正確だということになります。

マズローは人間の理想ともいえる超越的自己実現者に関連して、最晩年に出版した改定版『人間性の心理学』の序章の結語でこう述べています。

既に、超人間、すなわち人類それ自体を超越する心理学と哲学について考え始めることが可能である。それはもう始まる。
マズロー『人間性の心理学』

あたかも遺言のような一文です。

試みとしてマズローのいう「超人間=超越的自己実現者」をビジュアル化してみましょう。先に5層に分けたビラミッドを四角形で囲んだ図を紹介しました。この図では、ピラミッド(三角形)が既存の自己、四角形が潜在的な自己を示していました。現在の私がピラミッド(三角形)であるということは、私は未だ四角形で示した潜在的能力を十分に発揮していないことを示しています。

では、この図を円で囲んでみましょう。すると次のようになります(図3)。

図3:自己を超越した「黄金の円」

四角形を超えて広がる円は、潜在的な能力を超えた自己を表現しています。つまり「超人間=超越的自己実現者」です。三角形、四角形、円という、極めて単純な図形を用いていますが、これで人間の成長を象徴的に示せるのは、ちょっと驚きかもしれません。

なお、マズローは「欲求の階層」や「自己実現」「至高経験」以外にも、「シナジー」や「ユーサイキア」「ユーサイキア・マネジメント」「Z理論」など、重要な提言を多数行っています。

ただ残念ながら、これらの考えは一般的になっていないのが現状です。少なくとも欲求階層論を提唱しただけの人物としてマズローをとらえるのは不適切だと理解してください。

※ ※ ※

この特集記事で紹介した内容は、拙著『マズロー心理学入門』(FLoW epublication)でより詳しく解説しています。マズロー心理学ついてもっと詳しく知りたいという方は是非ともご一読ください。


  1. マズロー『人間性の心理学』収録「第4章 人間の動機づけに関する理論」p. 55〜90。マズローは原典で「Need for Self-Actualization」と書いているが、ここでは表現を統一した。 ↩︎