2015年10月8日から24日まで、日本経済新聞紙上にて、「実業家が愛した美術十選」という連載を掲載しました。

実業家が蒐集した数ある美術品の中から筆者選りすぐりの10点をとりあげ、その美術品がたどった数奇な運命や実業家のエピソードを紹介しています。

第1回 孔雀明王像(国宝)

出典:Wikimedia Commons

 

美術品蒐集を趣味にした著名実業家は多い。蒐集品や蒐集方法が実業家の性格を表すこともあり興味は尽きない。

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「おい、原、オマエはこの画に大いに感服しているようだが、金1万円ならば売ってやるよ」

明治の元勲で古美術には目がない井上馨が語る相手は、横浜の生糸貿易商で原合名会社の当主、号して三溪こと原富太郎である。原が見入っていたのは、井上自慢の「孔雀明王像」である。もともと高野山某寺にあったものが回りまわって井上の手に渡っていた。

当時、古美術品に1万円は破格である。原は買うはずなかろう、と井上は高をくくっていた。しかし原は言い値で譲り受けたい旨を井上に伝える。これには豪胆でとおる井上も度胆を抜かれた、と伝わる。

以後、美術館が優に建つほど充実する原のコレクションの中でも、孔雀明王像は別格の位置を占めた。また原は蒐集のみならず安田靫彦ら若手日本画家のパトロンも務めた。根っからの美術好きだったのである。

しかし関東大震災で会社が大打撃を受けると、原は好きな美術をきっぱり止める。そして自社の再建よりも横浜復興に獅子奮迅の働きをする原は、誠に偉い人であった。

日本経済新聞2015年10月8日朝刊

第2回 十一面観音像(国宝)

出典:Wikimedia Commons

「フェノロサが何か言ったら井上が持って行ったと言うておけ」

言葉の主はまたしても井上馨である。いったい何のことか。実は「十一面観音像」にまつわる。

そもそもこの十一面観音像は、大和の法起寺にボロボロで放置してあった。それをフェノロサが200円で買うと言って手付金を入れた。これが井上の耳に入ると、冒頭の言葉を置き土産に井上は300円でこの仏画を持ち帰ったのである。

やがて十一面観音像は井上の手から、三井物産創設者で大茶人鈍翁としてその名も高い益田孝の蔵に入る。そもそも益田は前回紹介した孔雀明王像に目をつけていた。原三溪が買わない場合、少々値引きの上で自分が引き取ろうと考えていた。

ところが予想外に原は言い値で孔雀明王像を手に入れるばかりか、この十一面観音像も井上から買いたいと言い出す。その値3万円である。これを耳にした益田は3万5000円の破格値を井上に示し、まんまと十一面観音像を手中に収めた。

原の孔雀明王と益田の十一面観音は民間所有の仏画の双璧と言われた。美術研究家矢代幸雄は、いずれが第一かよく議論したがいつも決着はつかなかった、と書いている。

日本経済新聞2015年10月9日朝刊

第3回 源氏物語絵巻(国宝)

益田孝のコレクションには現国宝の美術品が多数あった。「源氏物語絵巻」、別名「隆能源氏」もその一つである。もともとは大名蜂須賀家の所蔵で、現存する日本の絵巻で最古のものだ。

明治に入って隆能源氏は建築請負の柏木貨一郎の所蔵となる。ある日柏木はこの作品を担保に益田から金を借りた。ところが期日までに金を返しに来た柏木に対して益田は、金はいらないから担保も返さない、と何とも無体なことを言い出す。

返せ返さないの押し問答の末、仲裁人が入って隆能源氏は無事柏木に戻る。しかし柏木の死後、狙った獲物は逃さない益田は、首尾よく隆能源氏を入手するのであった。

益田の死後、隆能源氏も含めコレクションの多くはコカ・コーラの製造販売で富をなした高梨仁三郎の手に渡った。このコレクションに目をつけたのが東急グループ創始者で「強盗慶太」の異名を持つ五島慶太である。

なんでも五島は「キミが集めているものを貸してくれ」と頼み込み、高梨が持つ全作品を持ち去ってしまった。1年後、両者の間で売買契約が成立するが、2人の間には返せ返さないの押し問答があったに違いない。あぁ、歴史は繰り返すのであった。

日本経済新聞2015年10月12日朝刊

第4回 寒山拾得図(重文)

 

出典:Wikimedia Commons

「この画中の人物は何やら物を言うそうなり」

森蘭丸は主君織田信長がこうつぶやくのを聞いた。信長が言う「この画」とは伝顔輝筆「寒山拾得図」にほかならない。

ある日、信長の癇癪に閉口した蘭丸は、寒山拾得の2人が「近頃の殿の御短慮はもってのほかでご用心これなし」と話しているのを聞いたと述べて、信長をたしなめた。

信長は激怒し、「陰口をたたく寒山拾得を今すぐ焼き捨てよ」と蘭丸に命じる。蘭丸は寒山拾得の前でしばし端座したあと「2人は殿のご威光に恐れをなして何も物を言いません。平にご容赦をお願い奉ります」と謝る。信長はたちまち機嫌を直し、寒山拾得は灰燼に帰すことを免れたという。

この信長所蔵の寒山拾得が時を経て川崎正蔵の手に入った。川崎造船所を一代で築き上げた川崎は大の古美術品好きで、明治23(1890)年に川崎美術館を開いた。中でも寒山拾得は川崎の宝で、「ロシアが本土に攻め込んで来たら寒山拾得を持って逃げる」と周囲に漏らしていたほどだ。

信長と川崎はともに冷徹な性格が共通する。寒山拾得がもつグロテスクな趣は、現実を冷めた目で見る人物を惹きつける何かがあるのだろうか。

日本経済新聞2015年10月12日朝刊

第5回 曜変天目茶碗(国宝)

出典:Wikimedia Commons

蒐集家は美術商泣かせである。その泣かせ方には2種類あるという。

一つは辛気くさい蒐集家である。逸品は欲しいが独りで決める勇気はない。他の人に話を聞き、また別人に鑑別してもらう。美術商は辛気くささと骨折りで泣かされる。富豪の十中八九はこの部類に属するそうだ。

もう一つは希少なケースである。一見してこれだと判断すれば、何も言わず即座に買い取るのを常にする蒐集家である。あまりの気っ風のよさに、美術商は思わず嬉し泣きをしてしまう。

藤田財閥を一代で作り上げた藤田伝三郎はまさに希少なケース、古美術商を嬉し泣きさせる後者の典型だった。

「世の中には人柄がよくて、親切で温厚で確かな人がたまにいるものだ。そういう人にお金を持たせたのが藤田伝三郎さんだった」と語ったのは、外国に日本美術を売りに売った山中商会の山中定次郎である。

残念ながらここに示した曜変天目茶碗は藤田伝三郎が購入したのではなく、長男平太郎が入手したものだ。仮に宇宙空間を垣間見るようなこの不可思議な文様を伝三郎が目にしていたら、即座に言い値で買い取って、美術商を大いに嬉し泣きさせたに違いない。

日本経済新聞2015年10月16日朝刊

第6回 花白河蒔絵硯箱(重文)

「維新後盛んに道具を買収し王国を築いた人物は全国に多数いる。ならば最も多く道具買収費をつぎ込んだのは誰か」

三井の幹部で引退後数寄者三昧の暮らしをした高橋義雄はこう問う。昭和4(1929)年のことだ。「一も二もなく根津嘉一郎翁を推さずばなるまい」。これが高橋の答えであった。

根津は東武鉄道の再建に辣腕を振るい、以後、経営が傾いた鉄道会社に乗り込んでは再生するのを得意とした。だから人は「ボロ買いの嘉一郎」、略して「ボロ嘉一郎」と呼んだものである。

にわかに大金を手にした人が美術品に手を出すとボロをつかまされることがある。しかしボロ嘉一郎は違った。根津が古美術蒐集の世界に華々しく登場するのは明治39(1906)年、入札では当時の最高値の1万6500円で「花白河蒔絵硯箱」を競り落としてのことだ。

この硯箱は足利義政旧蔵と伝わり、のちに江戸初期の僧侶で数寄者の本尊でもある松花堂昭乗が使ったという。以後根津は、昭和4年までに1000万円の金を書画骨董に費やした、と先の高橋は書く。現在価値に直すと200億円から240億円に相当しようか。

折よく今、根津美術館では花白河蒔絵硯箱を特別展で展示中である。

日本経済新聞2015年10月19日朝刊

第7回 普賢菩薩騎象像(国宝)

今年8月末、ホテルオークラ東京の本館が建て替えのため一旦営業を終了した。同ホテルは昭和37(1962)年に大倉喜七郎が開業した。この喜七郎の父親が大倉喜八郎で、裸一貫から大倉財閥を築き上げた人物である。台湾征伐や西南戦争、日清・日露戦争、さらには第1次世界大戦と、大倉は軍需物資の供給者として戦争があるごとに莫大な富を築いた。「死の商人」と陰口をたたかれても、しかし本人はまったく意に介さない図太さである。

一方大倉は明治維新早々から古美術品を熱心に蒐集した。中でも大倉は仏像に目がなかった。この「普賢菩薩騎象像」は大倉の仏像コレクションの白眉と言ってよい。端正な普賢菩薩像に対して、短い足を地に着けた象が剛腹な大倉に似ている気がするのは錯覚か。

大倉は持ち前の図太さを美術品蒐集でも発揮した。品を買う場合、必ず大幅な値引きを迫ったのである。ある有力古美術商は大倉について「1000円のものであればその半分の500円に値切り、2割位まけなければ買わない」と述べた上で、だから名品を入手するのはなかなか難しかった、と厳しい評価を下す。

大倉が普賢菩薩騎象像を半値に値切ったかどうかは、私は知らない。

日本経済新聞2015年10月20日朝刊

第8回 ゴッホ「アルルの寝室」

出典:Wikimedia Commons

昭和26(1951)年、サンフランシスコ平和条約を締結する際に、全権の吉田茂首相はフランス外相シューマンに「松方のコレクションを日本に戻してほしい」と直談判した。

吉田の言う「松方」とは首相を2度務めた松方正義の三男で、川崎造船所が株式会社になる際に初代社長に就いた松方幸次郎である。社長になった松方は自ら欧州に渡って船舶を売り、同社の業容を急拡大させる。

その一方で松方は西洋絵画を大量に買った。ステッキで絵画を指し「ここからここまでくれ」と言ったこともある。ただし松方の絵画蒐集は道楽ではなく、日本に持ち帰って本物を見られない画学生に供したいという思いがあった。

ところが第2次世界大戦勃発で、フランスに残されていた松方のコレクションは帰国が叶わず、敵国財産としてフランス政府の管理下に置かれた。吉田はそれを戻してほしいと談じたのだ。シューマンは即座に吉田の要望を受け入れた。こうして松方コレクションはやがて日本に戻り、現在上野にある国立西洋美術館の基礎になる。

ただしフランスとしてはどうしても戻したくない作品が19点あった。その一つがここに掲げたゴッホ作「アルルの寝室」である。本作は現在オルセー美術館が所蔵する。

日本経済新聞2015年10月22日朝刊

第9回 歌川広重「阿波鳴門之風景」

松方幸次郎は西洋美術を買いまくるだけでなく、欧州に流出していた浮世絵を大量に買い戻して日本に持ち帰っている。現在、東京国立博物館が所蔵する松方浮世絵コレクションである。

そもそもこのコレクションは、フランスの宝飾商で、パリの実業界でもその名が知られたアンリ・ヴェヴェールの蒐集品を松方が一括して購入したものだ。

19世紀後半以降、浮世絵はあまたの芸術家に影響を及ぼし、また好事家は競って浮世絵を蒐集した。ヴェヴェールもその一人であり、コレクションの多くを日本の画商林忠正から購入した。

あるときヴェヴェールは、林が扱う浮世絵に「林忠正」の赤い印があるのに気づいた。ヴェヴェールは自分の浮世絵コレクションにも専用の印を押したくなり、特注のハンコを林に依頼する。

出来上がった丸印には2行で「アンリーヴェヴェール」とある。ヴェヴェールはこの印を歌川広重作「阿波鳴門之風景」3枚続きそれぞれに丁寧に押印した。しかしヴェヴェールは日本語が読めなかったようだ。というのもヴェヴェールが押した印は、3枚とも見事逆さまになっているからだ。

この逆さ印がある広重も松方浮世絵コレクションの一つに収まっている。

日本経済新聞2015年10月23日朝刊

第10回 黒田清輝「針仕事」

出典:Wikimedia Commons

ヴェヴェールに浮世絵を供給した林忠正は、パリ万博の仕事で明治11(1878)年に渡仏した。その後、パリに商会を共同で設立し、日本の美術品を売りに売った。

林が独立した自店を本格的に構えたのは明治22年である。以後林は10カ月ほど日本に滞在して美術品を収集し、そのあとフランスに戻って2年ほど売りまくる生活を長く続けた。なんでも林が近日帰朝の電報を寄こしただけで、日本の美術品の価格が上昇したというからスゴイ。

林は日本美術を欧州で売りさばく一方、西洋絵画の蒐集に心血を注いだ。画家から直接購入することも多く、浮世絵と交換で作品を手に入れることもあった。まだ無名だったあのクロード・モネも、自作と交換で大好きな浮世絵を林から入手している。

そのため林は画家との交流も広かった。明治日本の洋画界に決定的な影響を及ぼすラファエル・コランも友人の一人だった。また、法学を修めるためにフランスへ留学していた黒田清輝の画才を認めて画家への転向を勧め、コランを黒田に紹介したのも林である。

「針仕事」は、黒田がコランの教室に通い出したのち3年もたたずして描いたものだ。やがて林は本作を手に入れるが、思うに浮世絵との交換ではなかったに違いない。

日本経済新聞2015年10月24日朝刊