拙著『物語 財閥の歴史』では、江戸時代半ばから戦後に至るまでの財閥の歴史を物語風に紹介しています。本稿では同書で扱った中から代表的な財閥を作り上げた人物を中心に、興味深い話題についてお話ししたいと思います。
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目次
第1回 住友財閥──銅とともに歩んだ四百年の歴史
日本の財閥の中で、最も古い歴史を誇るのが住友財閥です。その起源は、17世紀の寛永年間(1624〜44)に住友政友(1585〜1652)が京都に開いた書肆(本屋)および薬の店にさかのぼります。
薬種商から銅の問屋へ
同じ頃、この政友の姉婿・蘇我理右衛門が「南蛮吹き」を習得し、「泉屋」という屋号で銅製錬と銅貿易商を営んでいました。南蛮吹きとは、鉛を使って粗銅に含まれる銀や不純物を取り除く精錬法で、従来よりもはるかに純度の高い銅を大量に生産できました。名称が示すように理右衛門はこの手法の原理を南蛮人から聞き出して、苦労の末に実用化したといいます。
やがて理右衛門の長男が住友家の娘婿となり、住友家でも泉屋の看板で銅の製錬を生業にします。そのため住友では理右衛門を業祖、対して政友を家祖と呼びます1。
江戸幕府にとって銅は、金銀と並ぶ重要な輸出品です。住友家はその供給元としての信頼を勝ち取り、大坂銅座との結びつきを深めていきました。こうして泉屋は、薬屋から銅商人へと姿を変え、日本有数の「銅の問屋」へと成長します。
この住友家の運命を決定づけたのが、別子銅山の発見と開発でした。1690(元禄3)年、伊予国(現在の愛媛県新居浜市)で銅鉱脈が見つかると、その翌年、住友はこれを直営し、巨大な銅山経営に乗り出します2。
別子銅山は、その後約260年にわたり採掘が続く日本有数の鉱山となり、住友の発展を支える「金のなる山」となりました。この別子銅山の経営にあたっては、山間部に都市のような鉱山町を築き、鉱夫や家族の生活を支えるインフラ整備にも力を入れました。教育、医療、福利厚生の充実ぶりは当時としては先進的で、企業の社会的責任という概念を先取りした取り組みだったといえます。
明治維新と住友本店の誕生
幕末から明治へと時代が大きく変わるなかで、住友は幕府との関係を断ち、近代的な企業組織への変革を進めます。1877(明治10)年には、各事業を統括する組織として「住友本店」を設立しました。これは後年の持株会社の先駆けともいえる存在で、鉱業を中心に機械・化学・貿易へと事業を広げます。
同時に、金融分野への進出も始まります。1895(明治28)年には住友銀行(のちの三井住友銀行)を設立し、住友グループ内外の資金需要に応えるとともに、財閥としての基盤を確固たるものにしました3。
大正から昭和初期にかけての住友は、「三大財閥」の一角として、三井・三菱とともに巨大な影響力を誇ります。特に鉱業・重工業・金融の三本柱は強固で、住友金属工業や住友化学、住友生命保険などの有力企業を多数擁していました。
しかし、第二次世界大戦後、GHQの財閥解体政策により、住友本店は解散します。グループ各社は分離・独立を余儀なくされました。しかし、戦後の高度経済成長のなかで、住友系企業はふたたび連携を強め、「住友グループ」として再結集します。
現在、かつての住友財閥に属した企業群は、それぞれ上場企業として独立しながらも、「住友」の名を冠し、ルーツを共有する者どうしとして緩やかな連携を続けています。
1982(明治15)年に制定した住友家法にある「浮利に走り軽進すべからざる4」という精神は、400年の時を超え、いまも企業理念として息づいています。
ひと言つけ加えると、住友家が蒐集した美術品を保管・研究する泉屋博古館はかつての屋号「泉屋」を冠しています。ただし読みは「いずみやはくこかん」ではなく「せんおくはくこかん」です。同館は青銅器コレクションが世界的に有名で、銅を生業の基にした泉屋の名を継承するのにふさわしいですね。
図:三角縁四神四獣鏡(泉屋博古館蔵)

出典:Wikimedia Commons
1 作道洋太郎編『住友財閥』(1982年、日本経済新聞社)p.37
2 同p.51
3 https://www.smbc.co.jp/aboutus/profile/history.html
4 作道洋太郎編、前掲書p.107
第2回 三井財閥──350年続く企業を創造した三井高利
住友財閥と同じく古い歴史をもつのが三井財閥です。住友財閥は銅山の開発から大きな富を創造しました。これに対して三井財閥は、新たなビジネスの仕組みによって富を創造する才に長けていました。
三井高利による商売の創造的破壊
三井家の元祖高利(1622〜1694)が江戸に「三井越後屋呉服店(越後屋)」を開いたのは1673(延宝元)年、まさに元禄時代がその幕を切って落とす時期でした。
当時の一流呉服店の一般的な販売方法は見世物商いか屋敷売りでした。得意先に出向いて御用を伺い、そのあとで商品を取り揃えるのが前者の見世物商いです。一方、屋敷売りは仕入れた商品を直接取引先に持参して商売しました。
いずれの場合も掛け売りが基本で、半年に一回か年末に一括して集金します。その間の金利分も商品に加味しなければなりませんから、価格はどうしても高くなります。この商習慣に「創造的破壊」で立ち向かったのが三井高利でした。
新参者の高利に大口の得意先はありません。老舗の店舗にとっての大口とは大身の武家、さらに大口になると大名です。
そこで高利は、現代でいうエンド・ユーザーを対象にするのではなく、諸国商人を顧客として卸売りを始めることにしました。諸国商人売りというこの手法は、薄利ですが商品の回転率を高められる利点がありました1。
さらに高利が採用した販売手法に店前売りと現金掛け値なしがありました。こちらは現代ではあまりにもありふれた、店頭に商品を並べて現金かつ値引きなしで販売する手法です。ほかにも切り売り(一反の切り売り販売)や仕立て売りなど、高利は従来の枠組みにとらわれない販売手法を次々と採用しました2。
図:三井高利

出典:Wikimedia Commons
公金為替というマジック
高利がとった斬新な販売手法の中で特に注目すべきものが公金の為替取組(大坂御金蔵銀御為替御用)です。幕府は近畿以西にある直轄地からの年貢を主に大坂で売却して現金に換えていました。この金は大坂の御金蔵に保管し、必要に応じて江戸に輸送しました。しかし、現金輸送には大きな労力が必要ですし、また輸送途中に災難に遭う危険もありました。この労力と危険を解消するのが公金為替です3。
これは大坂から江戸への現金輸送を、三井をはじめとした両替商が代替するものです。そこにはちょっとしたカラクリがありました。まず、両替商は大坂の御金蔵から現金を受け取ります。この現金は2〜5カ月間あとに江戸へ送り届ければよい規則とします4。つまり両替商はこの間、この現金を無利子で利用できるわけです。
三井はこの金を二つの方法で有利に運用しました。一つはこの金を用いて大坂や京都の商人から、江戸宛ての為替手形を買い取ることです。たとえば額面が100両の為替手形ならば、現金99両のように割引価格で買い取ります。ここに利ざやが発生します。さらに買い取った為替を江戸に送り、現地で現金に換えて預かっていた金を幕府に支払えます。上手に回せば大きな富を得られること必至ですね。
それからもう一つは、御金蔵から手に入れた現金で商品を買い付け、それを江戸で販売する手法です。そもそも三井では、京で仕入れた呉服を江戸に送って販売していました。御金蔵から得た金をこの仕入れ資金に流用すれば、自己資金なしで商品を仕入れられます。これを江戸に送って越後屋呉服店で売り捌けば、為替手形の買い取りよりも大きな利ざやを期待できるでしょう。
このように高利はビジネスの仕組みを考案する天才でした。この才が350年続く企業を生み出す礎になったわけです。
図:名所江戸百景・するがてふ(通りの両側が越後屋呉服店)

出典:ColBase
1 中田易直『三井高利』(1959年、吉川弘文館)p.83
2 同p.84
3 安岡重明編『三井財閥』(1982年、日本経済新聞社)p.39
4 森川英正『日本財閥史』(1978年、教育者)p.27、中田易直、前掲書p.165
第3回 三菱財閥──岩崎家四代、野心と理想の系譜
三菱財閥は、住友・三井と並ぶ「三大財閥」の一角です。三菱の特徴は、創業家である岩崎四代の強烈な個性とリーダーシップでしょう。土佐の地下浪人から始まったその物語は、日本経済の表舞台とともにあり、そして戦後の混乱を経て、三菱グループという新たな姿へと受け継がれていきます。
土佐のいごっそ──岩崎弥太郎(1835〜1885)
三菱財閥の創業者・岩崎弥太郎は、1835(天保5)年に土佐藩の地下浪人の家に生まれました。幼い頃から向学心にあふれ、江戸に出て学問を修めた弥太郎は、幕末動乱のなかで商才を発揮し、やがて土佐藩の政商として頭角を現します。
1870(明治3)年、弥太郎は九十九商会を設立しますが、これが三菱の源流になります1。1873(明治6)年には「三菱商会」と改称し、明治政府の御用達として海運業を寡占します。弥太郎の抜群の行動力と政界との太いパイプで、三菱はわずか数年で全国に名をとどろかせました。
弥太郎は強烈な個人主義と独裁的な経営姿勢を貫きました。部下には厳しく、自らは常に最前線に立って指揮をとる。彼の「社長=殿様」的スタイルは、のちの三菱の企業文化にも大きな影響を与えることになります。
図:岩崎弥太郎

出典:国立国会図書館「近代日本人の肖像」
瀕死の三菱を救う──岩崎弥之助(1851〜1908)
1885(明治18)年、弥太郎の死後、瀕死の状態にあった三菱の事業を継いだのは、弟の岩崎弥之助でした。弥之助は兄とは対照的に、理性的で制度設計に長けた経営者でした。感情に走る兄を支えながら、事業を安定させてきた弥之助は、経営の近代化を徹底します。
三菱の船舶事業が国策会社に吸収されると、弥之助は海運一辺倒だった体制を見直し、鉱業、造船、銀行、保険などへと事業を広げました。1893(明治26)年には三菱合資会社を設立し、持株会社体制を整備します。兄が築いた三菱の「勢い」に、「組織」という骨格を与えたのが弥之助でした。
図:岩崎弥之助

出典:国立国会図書館「近代日本人の肖像」
理知と穏健の経営──岩崎久弥(1865〜1955)
三代目を継いだのは弥太郎の長男・岩崎久弥です。米国ペンシルベニア大学ウォートン・スクールを卒業した国際派の経営者でした2。
久弥は、自らは表に出ることを避け、事業をプロ経営者に委ねる「所有と経営の分離」を試みます。久弥が社長を務めた三菱合資会社は、傘下に三菱銀行や三菱商事、三菱重工業など有力企業を所有し、三菱財閥は名実ともに一大企業集団へと成長しました。
久弥の穏健な性格は、社員への待遇改善にも現れています。労働環境の整備、福祉制度の導入、教育機関の支援など、社会的責任を重視する経営方針は、三菱の企業倫理の原点になったともいえます。
図:岩崎久弥

出典:国立国会図書館「近代日本人の肖像」
財閥解体に徹底抗戦──岩崎小弥太(1879〜1945)
四代目総帥・岩崎小弥太は、弥之助の長男で、ケンブリッジ大学を優秀な成績で卒業した教養人でした3。その教養の深さは学者然としていましたが、経営者としての能力も非常に高く、三菱の近代化を力強く推進しました。
小弥太の時代、昭和恐慌や日中戦争、そして太平洋戦争へと国家体制が急激に変化するなか、三菱グループは再編と統合を迫られます。重工業部門の集約、戦時体制への協力など、決して小弥太が望んだ方向とはいえない政策にも従わざるを得ませんでした。
敗戦後、GHQが進めた財閥の自主的解体に最後まで抵抗したのが小弥太でした。しかし、抵抗も虚しく1945(昭和)年12月、小弥太はこの世を去ります。翌年、三菱本社は解散になりました。
図:岩崎小弥太

出典:国立国会図書館「近代日本人の肖像」
執念の復活──三菱グループへ
戦後、日本の財閥は解体の道を歩みます。しかし、三菱の名前を冠する企業群はバラバラになりながらも生き残ります。1950年代になると、これらの企業は自主的な交流会である「金曜会」を組織し、定期的に主要企業の社長たちが集まり、情報共有と協力体制を築きました4。
この金曜会を核に、旧三菱系企業は「三菱グループ」として再結集を始めます。かつての中央集権的な財閥とは異なり、各企業が自主独立を保ちながらも、共通の歴史と価値観で結ばれているのが特徴です。
現在でも、三菱グループは三菱重工業、三菱商事、三菱UFJ銀行など、日本を代表する企業を多数擁し続けています。その根底にあるのは、岩崎家四代が築いた、組織一体で国家的事業に挑む企業家精神にほかなりません。
1 三菱史料館編『岩崎弥太郎小伝』(2001年、三菱経済研究所)p.9
2 三菱史料館編『岩崎久弥小伝』(2003年、三菱経済研究所)p.4
3 三菱史料館編『岩崎小弥太小伝』(2009年、三菱経済研究所)p.3
4 三菱創業百年記念事業委員会編『三菱の百年』(1970年、三菱創業百年記念事業委員会編)p.59
第4回 安田財閥──孤高の金融人、安田善次郎
三井・三菱・住友の三大財閥はグループ内に多様な企業群を所有していました。そのような中で、安田善次郎(1838〜1921)は金融業に特化して安田財閥を築き上げた点で少々異彩を放っています。
両替商で一財産をなす
1838(天保9)年、安田は富山の最下級武士の家に生まれました。伝記によると、藩に金を貸し付けていた大阪の豪商が富山に来たとき、普段はいばりちらしている役人が頭を下げているのを見て、安田は商人として身を立てようと決心したといいます。
江戸に出た安田は玩具問屋に3年、次に両替商に3年奉公し、25歳のときに独立します。この1864(元治元)年に開店した安田屋がのちの安田財閥の原点になります1。
安田に転機が訪れたのは時勢の移り変わりと大いに関係がありました。開国して間もない当時、日本の金が海外に流出していました。世界の相場に比べて金の価値が低かったからです。
幕府ではこれを食い止めるために古金を改鋳して新金を作ろうと考え、市中の両替商に古金を集めるよう触を出しました。しかし当時は浪人が跋扈して豪商に押し入っては金品を強奪しました。中でも両替商は格好の標的だったため多くが休業していました。
その中で安田は江戸で営業していた数少ない両替商の一つでした。その安田に対して幕府は3000両を貸し付けて古金の回収を命じたのです。安田は首尾良くこの仕事をこなし、本人が言うには「3、4000両」も儲けることに成功しました2。
図:安田善次郎

出典: Wikimedia Commons
孤高の企業人、凶漢に襲われて落命
さらに安田の名が世間に轟くようになるのは元号が明治に変わってからです。政府は太政官札という紙幣を発行しますが、そもそも政府に対する世間の信頼は極めて低いのが現実でした。そのため本来100両の価値がある紙幣が、発行から4、5ヶ月して47両まで下落しました。2000両の紙幣を引き受けていた安田は蒼白になりました3。紙幣の価値が下落したままでは安田は大損です。
しかし安田は、やがて明治政府への信頼も高くなるに違いないと考えて腹を決め、下落した紙幣を積極的に買い集めました。安田の読みは当たり、やがて政府より紙幣を額面通り流通させるよう触がでて安田は損失を免れています。
その後安田は、国立銀行条例が成立すると、第三銀行の成立に参画します。さらに80(明治13)年には合本安田銀行を設立し、日本銀行の創立時には理事に就任しています。また、経営に苦しむ中小の銀行を次々と傘下におさめる一方、保険業などを営んで一大金融グループを着々と形成していきました。
金融業に特化して財閥に成り上がった安田は他の財閥と一線を画していました。また、官業払い下げとも無縁で、政府や政治家と密着することもありませんでした。どこか孤高の企業人、それが安田善次郎でした。しかし、第一次世界大戦後に生じた財閥批判の中、安田は大磯の別邸で凶漢に襲われて命を落とします。
現在のみずほ銀行や明治安田生命保険、安田火災海上保険をルーツの一つにする損害保険ジャパンなどは、安田財閥を由来とする企業群です。また、ジョン・レノンの妻だったオノ・ヨーコは安田善次郎のひ孫にあたります。
1 宇田川勝編『日本の企業家活動』(1999年、有斐閣)p.17
2 安田善次郎『意志の力』(1916年、実業之日本社)p.68
3 安田善次郎『克己実話』(1902年、二松堂)p.165〜166
第5回 古河財閥──古河市兵衛が信じた「運鈍根」
1873(明治7)年、三井とともに明治政府の為替方御三家の一角だった小野組が倒産しました。この小野組の使用人として資産の整理や債権者との調整をしたあと、自身は小野組に預けていた資産も一切合切放棄して、裸一貫からの独立創業を目指したのが、すでに齢44になっていた古河市兵衛(1832〜1903)です。市兵衛が築く古河財閥は現在の古河電工や富士通のルーツにあたります。
44才からの挑戦
独立した市兵衛が進出したのは、小野組が管理していた新潟の草倉銅山の経営でした。その後ろ盾になったのが旧相馬中村藩相馬家です。これには絶妙な工夫がありました。
そもそも相馬家は、小野組に殖産と財産保全のために古金銀約3万両を預けていました1。この金が小野組の破綻により焦げついたのです。
一方、小野組の手にあった草倉銅山は大蔵省に没収されていて、稼業しようと思うと払い下げを受けなければなりません。そこで古河は、相馬家から政府に対して草倉銅山の払い下げを申請してもらい、代金については、相馬家が小野組に預けていた預金が大蔵省に差し押さえられているため、そこから差し引いてもらうよう願い出るよう勧めました。
また、払い下げが実現したあかつきには、市兵衛が銅山稼業を行い、そこから得た利益で焦げついた3万両を相馬家に返済するよう取り決めました。何とも市兵衛も相馬家も得をする妙案です。
払い下げは成功し、古河は相馬家から2万2千円、あの渋沢栄一が経営する第一国立銀行から1万円、合わせて3万2000円を資本に銅山稼業を始めました2。
草倉銅山が軌道にのると、市兵衛は1877(明治10)年に、足尾銅山の経営に乗り出します。当時の足尾銅山は、鉱脈の枯渇と経営陣の無能さが重なりもはや廃坑寸前でした。市兵衛は苦心の末、わずか46トンだった足尾銅山の出銅量を、85(明治18)年には4130トンとまさに2桁違いにまで伸ばします3。
しかし、市兵衛の真骨頂はここからです。足尾銅山の収益をもとに、市兵衛は事業を次々と広げ、鉱業・精錬・電力などへと事業を多角化します。いずれも「産業の根っこ」を担う分野ばかりでした。三井や三菱のような万能型財閥とは異なり、古河はインフラと鉱業に特化した、いわば地に足のついた財閥として独自の地位を築いていきます。
図:古河市兵衛

出典:国立国会図書館「近代日本人の肖像」
運鈍根──人事を尽くして天命を待つ
古河市兵衛の口癖は「運鈍根」でした。市兵衛は自分自身を鈍才と呼びました。しかし鈍才だから根気で努力できたといいます。しかしこれだけでも不十分でさらに天運が伴わなければならない、と市兵衛は言います。
「精魂を尽して天命を待って、時運、即ち天命を待つより仕方がない。成功は詰り自分の尽すだけを尽して、天命を待つと云ふことで初めて得られのである4」
うーん、とってもいい言葉ですね。
古河市兵衛の死後も、その精神はしっかりと企業に息づいていました。足尾銅山を核に成長した古河財閥は、鉱山技術を電線、電力、機械へと応用していきます。これによって生まれたのが、古河電気工業(1884年設立)や富士電機(1923年、ドイツのシーメンスと合弁)などの企業群です。これらはいずれも日本の重電・通信・電力インフラを支える重要企業に育ちました。
戦後の財閥解体後、かつての古河系企業は、「古河グループ」として再び緩やかな結びつきを強めていきます。現在では、古河機械金属(旧・古河鉱業)、古河電気工業、富士電機、富士電機の通信部門が独立して成立した富士通などが上場企業として活動を続けており、日本の製造業やエネルギー産業、情報通信業の中核を担っています。
1 五日会『古河市兵衛翁伝』(1926年、五日会)p.82
2 同p.81〜82
3 同p.137。原典の単位は「斤」になっており1斤0.6kgで計算している
4 同、「追録」p.50
第6回 大倉財閥──国家のニーズをビジネスに変えた大倉喜八郎
三菱の岩崎弥太郎は、明治政府が台湾に出兵する際、軍事輸送で大儲けすることで、三菱発展の土台を築きました。のちに大倉財閥を創る大倉喜八郎(1837〜1928)も、この戦役で大車輪の働きをした一人でした。
乾物商人から武器商人へ
大倉は1837(天保8)年に、越後国新発田の大商家に生まれました。17歳で江戸に出て丁稚奉公をし、その後独立して乾物を商う大倉屋を開業します。
ある日横浜で蒸汽船をその目にした大倉は、やがて天下が一変する騒動が起こるに違いないと確信します。この確信から大倉は武器商人へと転身します。予想は見事的中し、大倉は幕末の騒乱の中で武器をさばき大金を手にします。
この武器商人の時代、大倉が彰義隊に捕縛されたのはあまりにも有名です。彰義隊とは徳川慶喜が朝廷に帰順したあとも官軍と戦闘を続けた幕府軍です。
大倉を捕らえた彰義隊の高官はこう問い詰めました。
「お前は長らく幕府の恩顧を受けながら、官軍には鉄砲を売り、彰義隊には売らぬというではないか。これはいかなる所存か」
高官の言葉どおり大倉は幕府軍には鉄砲を売りませんでした。大倉はこう答えます。
「私は越後から参った商人でございます。商人はただ損益あるのみで、官幕のいかんを問いませぬ。しかし官軍は武器を売れば即座に代価を支払ってくれますが、彰義隊はそうでございません。これがために鉄砲のお渡しをひかえております」
「黙れ」
彰義隊の高官は白刃を抜いて一喝します。
大倉はことさら驚きもせず、白刃を見つめていたというからたいした度胸です。すると高官が言いました。
「ならば金を払えば鉄砲を納めるか」
「もちろんご注文どおりにいたします」
「では、3日以内に500丁の鉄砲を納めよ」
「一切承知いたしました」
以上のやりとりで大倉はその場から解放されたといいます。すると翌朝から上野で戦争が始まり、大倉は彰義隊との契約を履行する必要がなくなったとか1。
図:大倉喜八郎

出典:国立国会図書館「近代日本人の肖像」
明治国家のニーズを敏感にとらえる
もっとも維新になると武器では商いになりません。1873(明治6)年、大倉は「大倉組商会」を設立し、明治新政府が近代的軍隊の整備を進める中、軍需物資の納入業者として一気に存在感を高めます。
特に、1874(明治7)年、明治政府の台湾出兵では大倉自身も現地に向かい、兵站を担う人材や物資を手配し、戦地では兵士宿舎の建造や食事の提供を行いました2。多くの財閥創設者同様、大倉もここ一番というときの度胸はたいしたものです。
軍需に加えて、もう一つの柱となったのが建設業です。大倉は渋沢栄一らの支援を受け、日本初の会社組織による土木建築業である日本土木会社(のちの大倉土木組)を設立しました3。同社が手掛けた大事業の一つに京都と琵琶湖を結ぶ琵琶湖疏水の土木工事があります。さらに帝国ホテルや東京地下鉄道など、近代国家の象徴的な建物の建設に関わりました4。
また、日清戦争や日露戦争を契機に、大倉財閥は海外にも進出します。特に満州や朝鮮半島での鉄道、港湾、鉱山などのインフラ整備に関与し、日本の大陸政策と深く関わっています。
戦後、大倉財閥の中核企業だった大倉土木は一時的に分割されるものの、その後再編となって大成建設が成立し、現在ではスーパーゼネコンの一角として日本の建設業界をリードしています。
また高級ホテルの運営会社として著名なホテルオークラも、大倉財閥の流れをくむ有名企業の一つです。
1 大倉喜八郎『致富の鍵』(1992年、大和出版)p.33〜34
2 小林正彬『政商の誕生』(1987年、東洋経済新報社)p.151〜153
3 大成建設「会社の年表」(https://www.taisei.co.jp/corp/ayumi/history.html?utm_source=chatgpt.com)
4 同、大成建設「会社の年表」
第7回 藤田財閥──大阪を拠点に財閥を創り上げた藤田伝三郎
藤田財閥を一代で作り上げる藤田伝三郎(1841〜1912)は、1841(天保12)年、長州萩の造り酒屋に生まれました。維新後、藤田は官吏となって公に尽くそうと考えて同郷の木戸孝充を訪ねます。しかし木戸は、富国のためには経験ある有為の人物が商工業発展に尽くすべきだと諭し、藤田は実業家の道を選びます。
どこか大倉と似ているその軌跡
藤田が少々変わっていたのは、知人が多数いる東京を選ばず、大阪を商売の拠点に選んだことです。藤田はこの大阪で軍靴の製造に乗り出し、軍部御用達としてその地位を固めていきます。その一方で土木工事の請負も行い、1871(明治4)年に始まった大阪・京都間の鉄道建設を工事総合請負方式で受注しています1。これは我が国におけるゼネコンのはしりです。
藤田を一躍富豪に押し上げたのは77(明治10)年の西南戦争です。この戦争では大阪が官軍の兵站地になりました。藤田はここで軍需物資を次々と扱い、岩崎弥太郎の三菱に次ぐ利益を上げたといいます2。
この西南戦争での三番目の稼ぎ頭が大倉喜八郎だったといわれています。奇しくも藤田と大倉の事業には重複しているものが多数ありました。いずれも軍の御用達で、また土木事業にも手を染めていました。特に土木事業に関しては、藤田組と大倉商会の共同事業で大規模な工事を請け負っています。1986(明治19)年の琵琶湖疏水や佐世保・呉の軍港の工事請負などがそうです3。
そしてこれらの工事が進行中の1987(明治20)年、両社の土木部門が合併して日本土木会社が成立します4。この会社はのちに大倉土木組となり、現在の大成建設へと発展します。
また藤田組の事業の柱だった軍御用達も、日本土木会社が成立した同年に、大倉商会の当該部門と合併して内外用達会社に衣替えしています。こうして主力事業を失った藤田組は、一転、鉱山事業に経営を集中します。
図:藤田伝三郎

出典:Wikimedia Commons
久原財閥、そして日産コンツェルンへ
藤田が鉱山事業に進出したのは1880(明治13)年のことで愛媛県の市之川鉱山に資本を投下しています。この鉱山事業において藤田にとって画期となったのが、1884(明治17)年に払い下げを受けた小坂鉱山(秋田県)です5。
当時の小坂鉱山は小坂銀山と呼ぶのがふさわしく、銀の産出量では院内や生野をしのいで日本一を誇りました。藤田はここに優秀な技術者を次々と送り込みます。特に甥である久原房之助は、小坂を銀山から日本屈指の産出量を誇る銅山へ転換させた立役者です。
久原はのちに藤田と袂を分かち久原財閥を創り、この久原財閥は鮎川義介によって日産コンツェルンへと発展します。このように日産コンツェルンへの飛躍は、もとをただすと藤田伝三郎が大阪で始めた軍靴製造に行き着くわけです。なお、久原財閥から日産コンツェルンに至る経緯は、のちに回を改めてふれたいと思います。
付け加えると、藤田伝三郎は日本美術の大好事家でした。古美術商が名品を持参すると、藤田は一切値切ることなく買いとりました。そのため藤田のもとに名品が次々と集まりました6。現在、これらのコレクションは大阪の藤田美術館が所蔵しています。大倉喜八郎も蒐集した美術品を展示する大倉集古館を設けていますから、この点でも藤田と大倉は似た者同士でした。
1 砂川幸雄『藤田伝三郎の雄渾なる生涯』(1999年、草思社)p.48
2 同p.76
3 同p.118〜120
4 同p.127
5 岩下清周『藤田翁言行録』(1913年、岩下清周)p.82
6 東美研究所編『東京美術市場史』(1979年、東京美術倶楽部)p.183
第8回 浅野財閥──二人前食って三人前働いた浅野総一郎
1884(明治17)年、深川の摂綿篤製造所が払い下げになりました。払い下げ価格は6万1741円、払い受け人はやがて浅野財閥を創り上げる浅野総一郎(1848〜1930)でした。他の財閥創設者と同様、浅野も成り上がるまでに幾多の辛苦をなめています。
渾名は「損一郎」、東京で名誉挽回
現在の富山県氷見出身で村医者の家の長男に生まれた浅野は、医業を継がせたい親の意向に反し、商売で身を立てることを切望します。しかし郷里での商売は失敗続きで、「損一郎」とまで渾名される始末でした。1872(明治5)年、浅野はあたかも出奔するがごとく故郷を離れて東京へ転がり込みます1。
しかし東京に出たからといって職にありつけるわけではありません。浅野は苦肉の策として、赤門前でおでん屋を始めたり行商人に氷水を売ったりして生計を立てました2。
その後、幾ばくかの蓄えもできた浅野は、横浜に出て大塚屋の屋号で竹の皮や新薪、石炭の販売に手を染めます。やがて浅野はこの石炭を、渋沢栄一が経営する抄紙会社(のちの王子製紙)に納入するようになります。
抄紙会社に石炭を荷揚げする際、総一郎は自身も人足に混じって手足を動かしました。この埃まみれの姿が渋沢栄一の目に止まり、渋沢の方から「一度会ってみたい」と浅野を自宅に招きます3。以後、浅野は渋沢の強い支援を得て大成しますが、それはもうしばらくあとのことです。
ちなみに浅野は若いときから
「二人前食って三人前働く」
を信条にしていました4。
三度の食事を二度にしたり、粗末にしたりするようでは大きな蓄財はできない。大いに栄養分をとって、三人前も四人前も働く覚悟で活動すれば、自然に財産も築ける。この言葉にはこんな意味が込められています。
図:浅野総一郎

出典:国立国会図書館「近代日本人の肖像」
セメント事業から海運事業、埋立事業まで
多くの財閥創設者がそうであるように、浅野も鋭い着眼点と素早い行動で人の先を行きました。その一つがコークスの販売です5。横浜市は瓦斯灯を所有していましたが、燃料となるガスを得るには大量の石炭を燃やす必要があります。市が困ったのは燃えかすのコークスです。
浅野はこのコークスを知人がいる深川の摂綿篤製造所に持ち込んで、セメントの焼成に使用できないか提案します。この試験がうまくいき、浅野は横浜市がもつコークスをただ同然の値段で手に入れ、石炭より断然安いコークスを製造所に卸すことに成功しました。この廃物の再利用が、浅野が大きく飛躍するきっかけになります。
さらに浅野は、赤字続きだったこの摂綿篤製造所を、冒頭でも述べたように国から払い下げてもらい、浅野セメント工場として見事利益が出る企業に再建しています。
浅野は多角化にも積極的でした。まず浅野は、セメント製造の燃料を確保するため炭鉱経営に乗り出します。さらに石炭を自力で輸送するため海運業にも乗り出して浅野回漕店を設立しています。
また、浅野は東京湾の海面埋立事業や神奈川県の鶴見・川崎沿岸部を中心に、「何もない海」を工業地帯に変える国家規模のプロジェクトを民間主導で進めました。
浅野を資金面でバックアップしたのが渋沢栄一の第一銀行、それに安田善次郎の安田銀行でした。特に安田は浅野の良き理解者であり、浅野が困ったときにはいつも資金面から支援しました。
「浅野の仕事は規模が大きいから、金の出し栄えがする」
とは、安田が後藤新平に語った言葉です6。どこか浅野のスケールがわかるように思います。この安田が大磯の別邸で凶漢に襲われた時、浅野は偶然にもこの別邸に向かっており、血に染まった安田を目にしています。
現在、浅野財閥に由来する浅野の名を冠する企業は見あたりません。しかし、川崎の埋め立て地に残る浅野町は、浅野総一郎に由来する名として現在も残っています。
1 和田壽次郎編『浅野セメント沿革史』(1940年、浅野セメント)p.98
2 同p.99、実業之日本社『実業家奇聞録』(1900年、実業之日本社)p.34
3 高橋重治、小貫修一郎『青淵回顧録(下)』(1927年、青淵回顧録刊行会)p.1179
4 日本放送出版協会編『日本の「創造力」 第5巻』(1992年、日本放送出版協会)p.132
5 同p.133〜134
6 小林正彬『政商の誕生』(1987年、東洋経済新報社)p.200〜201、浅野総一郎『父の抱負』(1931年、浅野文庫)p.126
第9回 久原財閥──日立製作所の基礎を作った久原房之助
今回紹介している財閥の中で、最も知名度が低いのがこの久原財閥ではないでしょうか。久原財閥を創設した久原房之助(1869〜1965)は、藤田伝三郎の甥にあたり、鉱山・精錬事業で頭角を現しました。鉱山機械を自社開発するために設立した会社が現在の日立製作所にほかなりません。
鉱山事業を足掛かりに財閥へ
藤田財閥の創設者・藤田伝三郎が大阪で起業する際、長兄鹿太郎、庄三郎の二人の兄が郷里・萩からやって来て伝三郎を手伝いました。庄三郎は久原家に養子に出ていたため久原姓を名乗っていました。藤田組は伝三郎の主導ながらこの三兄弟の資本で成立しました。
一方、久原財閥の創始者になる房之助は久原庄三郎の四男で1869(明治2)年に萩で生まれました。房之助は藤田組に入社し、同社が経営していた秋田県の小坂鉱山へ赴任します。
小坂鉱山は銀の産出で日本では三本の指に入っていましたが、当時、産出量が目に見えて減少していました。久原は従来ほとんど顧みられなかった黒鉱からの銅の産出を研究し、小坂を銀山から銅山へ鮮やかに転身させるのに成功しました。これが破綻の危機にあった藤田組を蘇らせることになります。
しかし、藤田との意見の違いから藤田組を辞めた久原は、茨城県多賀郡の赤沢銅山を30万円で手に入れました。久原はこれを日立鉱山と名を変え、小坂鉱山で得た知識や技術を注ぎ込みます1。結果、1904(明治37)年に久原が銅山を購入した当時、138トンしかなかった産銅量が、1908(明治41)年には1872トンにまで急増します2。
ちなみにこの日立銅山の電気機械修理部が独立してやがて日立製作所になります。久原は日本の一大重電メーカーの育ての親でもあったわけです。
図:久原房之助

出典:国立国会図書館「近代日本人の肖像」
実業界から政界に転身する
久原は鉱山事業を梃子に製錬、汽船、保険、商事と事業を多角化して久原財閥を形成しました。中心会社である久原鉱業の新株は、第一次世界大戦の好況時、25円の払い込みで8力月後に430円まで狂騰しました3。そのため業界では、
「久原大明神」
と、言ったとか言わなかったとか。野村證券創業者で野村財閥を創り上げる野村徳七も、このときに久原大明神のお陰で、現在価値で280億円ほども儲けたといいます。この頃は三井物産と肩を並べる勢いだった鈴木商事の金子直吉、川崎造船所の松方幸次郎がボロ儲けしていたのと同じ時期です。この好況時、日本中は金に狂っていたようです。
しかし大戦が終了すると、久原の事業は一気に低迷します。それに追い打ちをかけたのが27(昭和2)年の失言恐慌でした。これは蔵相・片岡直温の誤った銀行破綻発言が引き金となった金融パニックです。この影響で久原財閥はほぼ破綻状態になってしまいます。
このピンチに八方塞がりだったのでしょう。胃潰瘍で吐血した久原は、事業を義兄の鮎川義介に托すことに決め、自身は政界で生きることにしました。これが失言恐慌の翌年、28(昭和3)年のことでした。
こうして久原財閥の事業は鮎川の手に移り、やがて日産コンツェルンとして再び隆盛を見ます。この点については次回にお話しすることにしましょう。
なお、政界に打って出た久原は、のちに逓信大臣や政友会幹事長に就き、第二次大戦がなければ首相になっていたとの評もあります。
1 日立鉱山の誤り。『久原房之助』P109
2 久原房之助伝記編纂会『久原房之助』(1970年、久原房之助伝記編纂会)p.130
3 同p.176
第10回 日産コンツェルン──第二次世界大戦に翻弄された鮎川義介の企業家精神
久原財閥を受け継いだ鮎川義介(1880〜1967)は母親仲子が明治の元勲・井上馨の姪でした。また井上は同郷である藤田伝三郎および藤田財閥の後見役でもありましたから、藤田・久原・鮎川は井上と切っても切れない関係にありました。鮎川は井上の支援も受けながら、久原財閥を日産コンツェルンとして再生します。
瀕死の久原財閥を日産コンツェルンとして再建する
1880(明治13)年に山口で生まれた鮎川は、長じて麻布内山田の井上邸で書生をしながら東京帝大工科大学に通います。卒業後は身分を隠して芝浦製作所(現東芝)の職工に転じ、やがてアメリカに出て鋳物工の修業をするという、少々変わった道を歩んでいます。渡米が1905(明治38)年のことでした1。
図:鮎川義介

出典:国立国会図書館「近代日本人の肖像」
2年のアメリカ鋳物修業のあと、帰国した鮎川は福岡県戸畑に戸畑鋳物会社を設立する。同社は第一次世界大戦景気に乗ったものの、鮎川の経営は堅実で大戦後の不況を念頭に利益は内部留保に努めている。この経営手腕を評価された鮎川は、久原鉱業をはじめ久原が経営していた企業群の再建を托されたのである。
鮎川は久原鉱業の債務を早急に整理して、社名を日本産業(日産)と改名しました。日本産業は久原財閥の傘下にある企業の持株会社とし株式を一般公開しました。また、久原鉱業を分離独立して株式を公開して市場から資金を得ています。
その後、31(昭和6)年に金輸出再禁止措置が行われると、日本の金の30%を産出していた久原鉱業の株が急上昇します。鮎川はこのブームを利用して日立製作所などの株式を公開し、そのプレミアムを新事業に投下したり、株式交換で企業を買収したりして業容を一気に拡大しました。
同年に買収したダット自動車製造(現在の日産自動車)への投資もこのプレミアムが大きくものをいいました。これを機に日本産業は自動車事業の拡大を猛然と進めます。
1937(昭和12)年には日本産業の資本は2億2250万円にものぼり、傘下企業は日本鉱業、日立製作所、日立電力、日産自動車、日本化学工業、日本油脂、日本水産など、77社にも及びました2。
満州に進出するも挫折の憂き目にあう
1931(昭和6)年、満州事変が起こると、翌年日本は満州国を設立します。満州政府では満州に眠る資源を開発し、これを活用して満州に一大工業国家を樹立する夢を見ます。その中心人物がのちに首相になる岸信介でした。
この壮大なる実験には、財閥のように強大な事業力をもつ企業集団が必要でした。そこで岸が口説いたのが、同じ山口出身である鮎川義介率いる日産コンツェルンでした。
1937(昭和12)年、鮎川は日本産業を満州に移転し、ここに満州重工業開発株式会社が誕生します3。満業傘下には、鉄鋼、自動車製造、飛行機製造、炭鉱開発、金属製造など、満州の経済開発に不可欠な企業群が集結しました4。
しかし、当初計画していたアメリカの資本参加は実現せず、また工業化の前提となる現地資源開発にも問題がありました。加えて開発の全権は鮎川に委任されていたにもかかわらず、実際は手足を縛る法律や組織が障害になって思うように事業を進められません。やがて満州に望みを失った鮎川は、在任5年で満業総裁を辞任します。
戦後、鮎川はGHQにより戦争犯罪者の指定を受け巣鴨拘置所送りになりました。出所後の鮎川は、日産コンツェルン関連企業に名をつられることはなく、政治家として活躍しました。1967(昭和42)年にこの世を去った鮎川の人生は、まさに波乱万丈そのものだったと思います。
1 日本放送出版協会編『日本の「創造力」 第11巻』(1993年、日本放送出版協会)p.241
2 高橋亀吉、青山二郎『日本財閥論』(1938年、春秋社)p.189〜190
3 鮎川義介他『私の履歴書 経済人9』(2004年、日本経済新聞社)p.66
4 小林英夫『「日本株式会社」を創った男』(1995年、小学館)p.168
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この特集記事で紹介した内容は、拙著『物語 財閥の歴史』(FLoW ePublication)でより詳しく解説しています。もっと詳しく知りたいという方は是非ともご一読ください。
