チャールズ・ラング・フリーア(Charles Lang Freer/1854〜1919)は、アメリカのデトロイトを本拠にした実業家で、日本美術の熱烈な愛好家でした。その日本美術熱は嵩じに嵩じて、やがてワシントンD.C.にフリーア美術館(Freer Gallery of Art)を設置するに至ります。現在フリーア美術館はスミソニアン博物館傘下のアジア美術館として多くの来場者で賑わっています。本稿ではフリーアその人と彼が日本美術を蒐集し始めた経緯を解説したあと、フリーアが蒐集した俵屋宗達(?〜1640頃)の作品を中心にその珠玉のコレクションを紹介したいと思います。
目次
チャールズ・ラング・フリーア略伝
チャールズ・ラング・フリーアは、1854年7月11日にニューヨーク州キングストンに生まれました。家は大変貧しく、14歳で母親を亡くすと、ミドルスクール(中学校に相当)を中退してセメント工場で働き始めます。その後、キングストンの雑貨食糧品店の店員を経たあと、会計の腕を見込まれて鉄道会社に職を得ています。
図1:チャールズ・ラング・フリーア
出典:Wikimedia Commons
南北戦争後、1870年代から90年代のアメリカでは、空前の鉄道建設ブームに沸いていました。フリーアはこの好景気の波に乗ろうとしたわけです。ただし、フリーアが鉄道事業で頭角をあらわすのは、鉄道サービスの運営ではなく、鉄道車両の製造においてでした。
1879年、フリーアは貨物車輌製造会社ペニンスラー・カー・ワークスの経営に参画する機会を得ます。事業は好調で、1883年には社名をペニンスラー・カー・カンパニーに変更するとともに、フリーアは副社長格で事業経営にあたりました。やがて会社は1,300人以上の労働者を雇い、年間売上高は400万ドルに達しました。さらに同業他社も吸収合併し、1892年にはデトロイト地区での貨物車輌市場を独占する巨大企業になりました。
しかしながら1899年、ペニンスラー・カー・カンパニーをも巻き込んだ大型の業界再編が進みます。結果、アメリカン・カー・アンド・ファンドリー・カンパニーが成立し、鉄道車両市場を独占します。当時、仕事上のストレスから体調を大きく崩していたフリーアは、すでに一財産築いたこともあり、これが潮時とビジネス業界から足を洗います。フリーアが45歳の時でした。
その後、65歳で歿する1919年9月25日までの約20年間、フリーアは美術品の研究と蒐集に人生を捧げます。生涯に蒐集したコレクションは1万5000点余に及びました。さらにフリーアはこのコレクションと展示のための美術館建設資金を国家に寄贈します。この美術館こそが、1923年に正式オープンし、いまも多くの来場者を集めるフリーア美術館にほかなりません。
フリーアの美術品蒐集事始め
フリーアが最初に手にした美術作品はエッチングでこれが1883年のことでした。その後しばらくはエッチングやリソグラフを蒐集しましたが、1887年にアメリカ出身でフランスやイギリスで活躍していたジェームズ・マックニール・ホイッスラー(James McNeill Whistle/1834〜1903)の作品を購入することで転機がおとずれます。
フリーアはホイッスラーの作品を熱愛し、1890年には当時ロンドンを拠点にしていたホイッスラーのアトリエを訪ねて、画家から直接作品を手に入れさえしています。さらに1892年にはホイッスラーの傑作の一つである「肌色と緑色のヴァリエーション:バルコニー」をフリーアは購入しました。
図2:ジェームズ・マックニール・ホイッスラー「肌色と緑色のヴァリエーション:バルコニー」
出典:National Museum of Asian Art F1892.23a-b
この作品では、テムズ川を背景にしたバルコニーで4人の女性がそれぞれ気ままな恰好でくつろいでいます。特徴的なのは全員が日本の着物を着用している点でしょう。当時のホイッスラーは日本美術や中国美術に傾倒しており、関連する作品を蒐集したり、自身の作品に応用したりしていました。「バルコニー」は、まさにその中の作品の一つに相当します。
ホイッスラーの日本熱はフリーアにも伝染し、以後、フリーアは日本美術の世界に大きく足を踏み入れることになります。その背中をさらに強く押すことになるのが、1894年から95年にかけてフリーアが行った世界一周旅行です。このときにフリーアは、1895年4月23日から8月23日までの4カ月間、日本に滞在しています。
ただしこの滞在時にフリーアは、日本の美術品をほとんど何もといってよいくらい購入していません。しかし、この日本訪問はフリーアの日本美術蒐集熱に火をつけたのは明らかです。というのも、日本から帰国するとフリーアは、在米の美術商を通じて日本の美術品を大量に購入し始めるからです。
フリーアコレクションを支えた三人の日本人美術商
最初の日本訪問から帰国して約1カ月後の1895年10月、フリーアはニューヨークに支店を構えていた日本美術商山中商会を訪れ、浮世絵を中心に大量の作品を購入します(ただしのちに浮世絵はすべて売却しています)。
山中商会は大阪で古物商を営んでいた山中一族が創設した美術商で、日本や中国の古美術を世界の顧客に向けて売り捌いていました。現在も営業を続けている同社が、初めてニューヨークへ進出したのは1894年のことで、その先頭に立ったのがのちに同社の社長となる山中定次郎(1866〜1936)でした。以後、フリーアと山中商会の取引は、フリーアがこの世を去るまで続きます。
図3:山中定次郎
出典:Wikimedia Commons
フリーアはこの山中商会の山中をはじめあと二人、有力な日本人美術商を窓口に日本美術の傑作を次々と手中にしました。その一人は元僧侶の肩書きをもつ松木文恭(1867〜1940)です。
松木は大森貝塚の発見で著名なエドワード・シルヴェスター・モース(Edward Sylvester Morse/1838〜1925)らの支援を受けて、1893年にボストンのボイルストン街380番に日本の古美術店をオープンしました。フリーアが松木の店を初めて訪れたのは、最初の日本訪問から戻った翌年の1896年7月でした。この年から最後の取り引きとなる1909年までの13年間、フリーアは松木から300点を超える日本美術を購入しています。
図4:松木文恭
出典:「"A Pleasing Novelty": Bunkyo Matsuki and the Japanese Craze in Victorian Salem」
もう一人は浮世絵の蒐集家としても著名だった小林文七(1864〜1923)です。小林は浅草・駒形の古本屋で、書籍だけでなく錦絵も商っていました。英語が少しできたため、横浜に支店を置いて外国人相手に浮世絵を売り捌き、やがてアメリカへも進出します。もっともアメリカには自分自身で作品を持ち込んで、得意先に売り捌く営業手法を用いていました。フリーアが小林から作品を初めて購入するのは1900年のことです。最後の取引となる1906年までに、フリーアは小林から180点余りの作品を購入しています。
図5:小林文七(中央)
出典:National Museum of Asian Art, One of photographs of Ernest Fenellosa's memorial service at Homyoin
「無名」だった俵屋宗達の作品を蒐集する
気になるのはフリーアがこれら三人の美術商からどのような日本美術を購入したかということでしょう。当時の購入リストを見ると、少なくとも一つ、フリーアが好んだ作品の傾向があります。それは琳派、中でも俵屋宗達の作品が多いことです。次に示す「夏秋草花図屛風」は、フリーアが日本訪問から戻った翌年の1896年、松木文恭から購入したものです。
図6:宗達派「夏秋草花図屛風」六曲一隻
出典:National Museum of Asian Art F1896.821
作者こそ俵屋宗達とは断定できませんが、少なくとも宗達工房での作品だと推定できます。現代の私たちからすると、「宗達を選ぶなんてさすがに目が高い」と考えてしまいがちですが、事情は少々複雑です。というのも現代から考えるとちょっと信じられませんが、19世紀末の日本では琳派、中でも俵屋宗達の名は古美術界からほとんど忘れ去られていたからです。
この点について美術史家矢代幸雄(1890〜1975)は、「宗達芸術があれほどの偉さを蔵しながら、徳川時代を通じて殆ど忘れられ、伝記も何も解らなくなってしまったことは、驚くべきことである2」と著作『美しきものへの思慕』収録の「随筆宗達」で述べています。
また当時、宗達の作品は長らく本阿弥光悦(1558〜1637)の手によるものだと推定していました。この点に関してちょっと面白いエピソードがあるので紹介しましょう。フリーアが1902年に松木文恭から購入した「新古今和歌集色紙貼交図屛風」六曲一双を見てください。
図7:俵屋宗達絵、本阿弥光悦書「新古今和歌集色紙貼交図屛風」六曲一双
出典:National Museum of Asian Art F1902.195-1963
松木はこの屛風の作者を本阿弥光悦としてフリーアに売り込みました。しかしフリーアはこの作品を一目見て宗達の作品だと確信します。松木に宛てた手紙でフリーアは次のように述べています。
今回は光悦の屛風一双を研究できる機会でした。まさに非常に美しい作品です。しかし、注意深く検証すればするほど、これは宗達の作品に極めて近いという確信がより強まりました。植物の葉などの色使いも検証しましたが、最終的に私は光悦の作というよりも宗達の作品にほぼ間違いないと感じるようになりました。しかし、どちらの作品であれ違いはありません。いずれにせよ素晴らしい作品です。また、私の意見を述べることで、あなたの意見を変えようとしているのではありません。ただ、私が作品からいかなる印象を受けたかは、知っておいてもらいたいのです。4
当時、本阿弥光悦は書だけでなく絵も描くと考えられていました。そのため松木は、フリーアの手紙に対して光悦や宗達の来歴を説明し、絵はやはり光悦のものであり、またその年齢差からも光悦と宗達の共作は考えられない、と当時の常識的な意見を述べています。これに対してフリーアはさらに反論し、若き宗達が、年老いた光悦の賞賛を得るほどの技量をもっていたのであって、二人の共作も決してあり得ないことではない、と自説を展開しました。
結局のちにこの作品は絵が俵屋宗達、書は本阿弥光悦と鑑定されます。このエピソードからも、フリーアが鋭い鑑識眼の持ち主であり、宗達に惚れ込んでいたことがわかると思います。
日本にあれば国宝間違いなし、「松島図屛風」を落手
フリーアが蒐集した宗達の作品には他にも、山中商会から「雁図屛風5」「扇面散図屛風6」「葡萄橋扇面図屛風7」(伝宗達)、松木文恭から「四季草花図屛風8」「百合芍薬図9」「源氏物語朝顔図屛風10」(宗達様式)、小林文七から「古今集絵巻11」「雲龍図屛風12」「扇面散図屛風13」などを入手しています。フリーアは同じ琳派の尾形光琳(1658〜1716)や尾形乾山(1663〜1734)らの作品も所有していたものの、その点数は明らかに宗達の作品のほうが多くなっています。さらに、これら宗達作品の中でその白眉に位置し、日本国内にあれば国宝間違いなしといわれる「松島図屛風」も1906年に小林文七から入手しています。
図8:俵屋宗達「松島図屛風」六曲一双
出典:National Museum of Asian Art F1906.231-23214
この六曲一双の屛風は、大阪堺の祥雲寺がかつて所蔵していました。これが小林文七の手に落ちて、さらに海を渡ってフリーアの所蔵になったものです。
本作で宗達は、屛風全面に白い波頭を立てた荒れる海を金泥と淡い墨でこれでもかと描いています。右隻では松を抱く苔むした岩礁に白波があたって砕けています。左隻にはあたかも空から降ったような松枝が複雑にからまっています。左隅にある奇妙な塊は、州浜や浮島、浮き雲など様々な解釈があり、いまだ意見の一致を見ていません。いまやこの「松島図屛風」は、フリーア美術館を代表する作品にまでなっています。
またフリーアは、この屛風とセットになるといってもよい作品を、1907年に行った2度目の日本訪問時に入手しています。その作品は作者不詳ながら、画中画に「松島図屛風」がある貴重なものです。「誰ヶ袖図屛風」六曲一双がそれです。
図9:作者不詳「誰ヶ袖図屛風」六曲一双
出典:National Museum of Asian Art F1907.126, F1907.12715
「誰ヶ袖図」は、衣桁や屛風に掛け並べた美しい衣裳を主題にした、近世初期に成立する風俗画の一様式です。図の構成は、衣桁にかかる小袖や振り袖、打ち掛けを主体にして、琴や双六などの室内遊具を添え、人物を描かないのが基本になります。
フリーアが手に入れた「誰ヶ袖図屛風」は、人物不在という点では基本形に従った構図になっています。ただし、人物ではないものの、猫を多数配置している点が特徴の一つになっています。さらに大きな特徴といえば、やはり左隻(図下側の屛風)にある屛風でしょう。その図はフリーア所蔵の宗達筆「松島図屛風」の右隻と極めてよく似ているのがわかります。しかも屛風の右下隅には、「松島図屛風」にもある「対青軒」の印まであります。もちろん、宗達を示す「対青軒」の印があるからといって、この屛風を宗達作とするのは速断というものでしょう。現在は宗達の時代よりも下る作品と推定できます。
一方で、「誰ヶ袖図屛風」の作品データを見ると、作品の入手先は不明になっています。実は1907年の2度目の日本訪問時に、フリーアは贋作事件に遭遇しています。その事件の際に入手したのがこの「誰ヶ袖図屛風」だったようなのです。その顛末については拙著『日本美術の冒険者──チャールズ・ラング・フリーアの生涯』に詳しく記してますので、興味のある方はぜひともご覧ください。
俵屋宗達に光を当てたフリーアの功績
アーネスト・フェノロサ(Ernest Francisco Fenollosa/1853〜1908)は、お雇い外国人として1878(明治11)年に来日し、日本美術を世界に喧伝した人物としてつとに有名です。フェノロサは日本からアメリカに戻ったあと、ボストン美術館の日本部門を立ち上げてその部長に就任しました。しかし、部下の女性とスキャンダルを起こしたためボストン美術館を辞職し、その後は日本美術の公開講座を開いたり、手持ちの日本美術を売り捌いたりして糊口をしのいでいました。
図10:アーネスト・フェノロサ
出典:Wikimedia Commons
実はフリーアもフェノロサの顧客の一人でした。最初の出会いは1901年のことで、フリーアがフェノロサをデトロイトの自宅に招いたのでした。このときフェノロサはフリーア邸で1週間を過ごしています。その後、フリーアとフェノロサの親密度は急速に増し、フェノロサはフリーアの美術コンサルタントのような立場になります。
そのフェノロサが、日本美術の歴史について綴った大著『東洋美術史網』の中で興味深いことを記しています。先に19世紀末の日本では、俵屋宗達は忘れられた人物だったと書きましたが、フェノロサもこの本で同じ発言をしています。
この派(筆者注:琳派)の逸品は日本の蒐集家、とくに公卿階級に属する人びとの珍重してやまないところだったが、19世紀になると、その多くが散逸し、忘れられてしまったために、1878年(明治11年)私が日本に赴任してきた当時は、誰もその作品を見たものがなく、これを口にする者もいなかった。もちろん、光琳の蒔絵はヨーロッパでもよく知られており、光悦の名も聞こえていたし、乾山の陶器も有名だった。この三人の仕事が──無名だが、もう一人、俵屋宗達の名を逸することはできない──障壁画のデザインを中心として大きな流派を形成するに至ったこと、またその工芸上のデザインが障壁画のそれから派生したものであることは、紛れもない。16
このようにフェノロサは、俵屋宗達を「無名」とまで称しています。その上でフェノロサは次のように述べています。
光琳派の国民的意義がひろく理解されるようになったのは、ごく最近のことで、デトロイト市在住のフリーア氏がこの派の名品、とくに光悦の作品を蒐集するに及んで、問題となってきたのである。17
実際、20世紀に入ると「本阿弥光悦は絵を描かず、絵を描いたのは俵屋宗達」という見解が主流となり、宗達の名も一気に上昇することになります。仮にフェノロサの指摘が正しいとすると、フリーアは今の宗達人気、引いては琳派人気に火をつけた張本人ということになります。
しかし、豪華絢爛なイメージが先行する宗達ですが、1905年に小林文七から入手した「雲龍図屛風」のように、全体を墨の濃淡で描ききった大変渋い作品もあります。このような作風も宗達だと理解して作品を蒐集していたとしたら、やはりフリーアの鑑識眼は非常に高かったと言わざるを得ないでしょう。
図11:俵屋宗達「雲龍図屛風」六曲一双
出典:National Museum of Asian Art F1905.229, F1905.23018
※ ※ ※
この特集記事で紹介した内容は、拙著『日本美術の冒険者──チャールズ・ラング・フリーアの生涯』(日本経済新聞出版)でより詳しく解説しています。チャールズ・ラング・フリーアや彼が蒐集した日本美術についてもっと詳しく知りたいという方は是非ともご一読ください。
脚注
- https://asia-archive.si.edu/object/F1896.82/ ↩︎
- 矢代幸雄『美しきものへの思慕』(1984年、岩波書店)p. 107 ↩︎
- https://www.freersackler.si.edu/object/F1902.195-196/ ↩︎
- フリーアから松木文恭への手紙, 1902年10月25日付け。 ↩︎
- https://asia.si.edu/object/F1898.57-58/ ↩︎
- https://www.freersackler.si.edu/object/F1900.24/ ↩︎
- https://www.freersackler.si.edu/object/F1902.102-103/ ↩︎
- https://asia.si.edu/object/F1897.24-25/ ↩︎
- https://asia.si.edu/object/F1898.56/ ↩︎
- https://asia.si.edu/object/F1903.101-102/ ↩︎
- https://asia.si.edu/object/F1903.309/ ↩︎
- https://asia.si.edu/object/F1905.230/ https://asia.si.edu/object/F1905.229/ ↩︎
- https://asia.si.edu/object/F1905.231/ ↩︎
- https://asia.si.edu/object/F1906.231-232/ ↩︎
- https://asia.si.edu/object/F1907.126/ https://asia.si.edu/object/F1907.127/ ↩︎
- アーネスト・フェノロサ著、森東吾訳『東洋美術史綱 下巻』(1981年、東京美術)p. 194 ↩︎
- フェノロサ、前掲書p. 194 ↩︎
- https://asia.si.edu/object/F1905.230/ https://asia.si.edu/object/F1905.229/ ↩︎